南風会の精神とその歴史

南風会が発足したのは
主義主張を同じくする同志の集まりではない。

たまたま名古屋大空襲で奇しくも残った私のアトリエに、
見知らぬ人達がちらほら集まってきたのが機縁となって、
着衣のモデルを描いたりするそのうち裸のモデルを描ける様になってきた。
当時戦争中だったが、絵具はわずかながら配給があり仕事に支障はなかった。
しかし、毎年出品していた展覧会が休会したりして画家達には暗い時代であった。

段々人数が増えるにつけ、日頃の成果を世に問い
批判を仰ぎたい気持ちになるのは当然の成り行きである。

丁度松坂屋の北側にガスビルという建物があり、
そこに貸画廊があった昭和27年、
そこで第一回南風展が開かれたのである。
その時の出品者は約20名。殆ど20代の若者だった。

会は回を重ねる度にたくましく成長して、
昭和30年の第四回展以後は愛知県美術館に会場を移し、
特に九回から十二回までは四彩展の名で創彫会(彫塑)、
生々会(書道)、池坊華道会(華道)とともに開催して
世の注目を集めたものである。
また、昭和41年には15回記念展、46年には20回記念展、
56年とそれぞれ節目ごとに記念展を開催、
有志は100名を越し大作を集めて
完全にグループ展のスケールから脱却した。


その間会員のうちにも若干の交替もあったが、日展、光風会その他に多くの入選者、受賞者を送り出し、現在では光風会会員、会友、評議員、日展委嘱出品者等、数多くの作家を擁している。

しかし南風会は必ずしもプロの作家のみの集団ではなく、何時も小品のみを描き続け、あくまでも美しいアマチュア精神に徹してたゆまぬ努力をしている作家群もある。

これはまことにほほえましい光景であるのだが、こうした隆盛は勿論作家一人一人の芸術に対する厳しい精進のたまものであるが、終始強固な支柱となって激励をいただいた故鬼頭鍋三郎先生の暖かい御指導に負う所が多い。そして全体としてみるならば、南風会自体の大きな成長を物語っている。

言うまでもなく芸術の道は無限の未来を秘めている。

南風会も半世紀になんなんとしている。
この南風会はこの辺りで初心に立帰り、何事にも拘束される事なく、
現代をふまえて自由に大胆に自己の個性と才能を伸ばして育てる創造の場でありたいと念願している。

(平成3年、第40回記念南風展 目録より抜粋)

2001年(平成13年)
南風会が団体として愛知県芸術文化選奨文化賞を受賞

受賞理由
「昭和27年に設立以来、50年間にわたり流派にとらわれることなく、展覧会の開催、美術の研究、指導、作家の育成を続け、日展、光風会展等の多くの公募展に有力な作家を輩出するなどその活動は高く評価されている。また、その会員は、美術文化の裾野を拡げるためのさまざまな尽力を行うなど、本県芸術文化の振興と向上に貢献し、今後もその活躍が期待されている。」

(平成13年度 愛知県芸術文化選奨受賞者業績概要より)

故小川博史(日展参与・光風会名誉会員)が率いる南風会は2010年(平成22年)6月10日小川博史の死去により一旦幕を閉じたが、小川博史の娘、武部志摩子の依頼により本間美智子・青山誠一・伊藤寿雄の3名に引き継がれ、3名の先生による南風会をスタートさせた。故小川博史により毎年開催されていた南風展(愛知県美術館にて、近年出品作品80点程)も3名の先生により引き続き開催されている。

南風会は、小川博史の南風会の精神のもと、その歴史が途絶えることなく引き継がれ、より良い人間としての精神の鍛練の場として、また自己発生的な自由な創造における描写、色彩などの修練の場として、3名の先生により引き継がれている。