小川 博史

洋画家、1913年(大正2年)10月24日、岐阜県に生れる。 辻永、鬼頭鍋三郎に師事。

20〜40歳代前半は伊勢志摩の波切風景、海女たちやバレリーナーなど。40代中〜60歳頃はエジプトのピラミッド、スペインの穴居、桂離宮の石庭などを、写実を基本に堅固な構成力と重厚なマチエールにより描く。60歳代からはモロッコやギリシャ、エーゲ海のサントリーニ島を取材し、古代ギリシャの崇高な精神や神秘性を託した裸婦像や女神像を美しいマチエールで描く。

生涯一貫してこれらのモチーフを通じ、歴史と風土の中に生きる人間の本質をキャンバスに表現することに情熱を燃やし続けた。

戦後間もなく空襲を免れた自宅アトリエで洋画研究所「南風会」を旗揚げ、後進の指導にも尽力した。

愛知県美術館、岐阜県美術館、美濃加茂市民ミュージアム、豊田市美術館、岡崎市美術館、豊川市桜ケ丘ミュージアム、中日新聞社、熱田神宮などその他に作品収蔵。

略歴

1936年(昭和11年、23歳)文展(日展の源流)初入選
1941年(昭和16年、28歳)光風会レートン賞
1943年(昭和18年、30歳)文展岡田賞
1948年(昭和23年、35歳)光風会特賞
1949年(昭和24年、36歳)日展特選
1962年(昭和37年、49歳)新日展菊華賞
1966年(昭和41年、53歳)中日文化賞
1976年(昭和51年、63歳)東海テレビ賞
1982年(昭和57年、69歳)光風会展辻永記念賞
1984年(昭和59年、71歳)愛知県文化功労者
1987年(昭和62年、73歳)名古屋市総合体育館正面玄関に大陶壁画完成
1988年(昭和63年、74歳)紺綬褒章
1989年(平成元年、76歳)日展文部大臣賞
1990年(平成2年、77歳)勲四等瑞宝章
2010年(平成22年、96歳)死去、日展参与、光風会名誉会員

活動歴

1948年(昭和23年、35歳)青季会結成(鬼頭鍋三郎、大沢海蔵、新道繁、田村一男、森田元子、幸島重雄と共に)
1949年(昭和24年、36歳)四樹会結成(幸島重雄、高木春太郎、高橋道雄)
1952年(昭和27年、39歳)主宰する南風会の第1回南風展を開催。以後毎年開催
2001年(平成13年、90歳)南風会が愛知県芸術文化選奨文化賞受賞

表現とは見ることの
ひたむきな追求である

一個の壺、一輪の花を描くことは、作家が対象を如何に見たかの具象的構成である。而して見るとは、対象の中に我を発見することであり、裡なる我を外に移して見ることである。画布の上に再現された一個の壺、一輪の花は作家自身の「我」の自覚に他ならぬ。

南風画展も既に五回、若い作家たちは見ることにその情熱を傾倒して来た。彼等が見たものが何であるかは、彼等自らの作品が語るであろう。

人間の創ったものを眺めるよりも、
自然の化石を眺める方が、わたしには愉しい。

そこに古代への夢が湧いてくるからである。

私は絵がへただとか、かけないとか、いう人がよくありますが絵をかくことは、だれにでもできる、ごくあたりまえのことです。

原始人のかいた壁画にもりっぱなものがあるように、原始人だってかけるものなのです。 自然な、らくなきもちで、人間性をすなおにあらわすようにすればいいのです。とにかく自信をもってかくことです。

(1965年 NHKテレビ『午後のひととき』趣味のコーナー、
スケッチの講座出演時の資料より)


ものの陰は、普段"暗い"と認識しているが、
以外と明るいことに気がつく。

白い色は、
環境によって、白でなくなってしまう場合があります。
例えば、同じ分量の緑と黒があって、其処へぽっと黄色を持って行くと、
黄色が違って見えるんです。

色彩には魔力がある。この不思議な現象は目が錯覚を起こすからです。
色彩のバルール(色価)は色と色との関係によって、
非常に効果が上がる場合と下がる場合があるんです。

追求しないといけませんよ。 如何に苦労するかが、その人の絵に反映します。
其処に価値があるんです。

自然との闘いですよ。

絵を描くのを一日休めば三日遅れる。

一週間休めば一ヶ月怠ることになる。
だから、毎日描かなければならない。特に若いうちわね。

絵はいつ筆を置いても、それなりに出来上がっていなければいけません。
三割のところで止めたらそれなりに、五割で止めたらそれなりに見られるものでなければなりません。そして、八割に来たらもう終わりにした方がよい。 十割描いたら描きすぎです。


いいですか。
絵を描くというのは絵具をキャンパスに
塗るんじゃなくて、置くんですよ。

内容のない絵はだめです。
絵は良いところを残して、
そこを基本に全体を描いていくんですよ。

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