追想の中に生起する詩境 ─存在の夢に想いを通わす洋画家─ 小川博史
- 『光彩』 話題の作家 1990年初夏号
- (光彩美術発行)
—— 昨年の第二一回日展作品《テトアンの女》で文部大臣賞を受賞され、おめでとうございます。失礼なんですが、先生のキャリアなんかからするとちょっと遅かったような、意外な感じがしました。
小川 私もびっくりしているんです。何でもそうですけれどあまり物事にこだわらない時に思わぬ事が起こるものですね。
鬼頭鍋三郎に師事して
—— 先生は名古屋にお住まいということで、鬼頭鍋三郎先生に師事されていましたね。作品だけから見ると、それもちょっと意外だったんです。
小川 鬼頭先生を非常に尊敬していて、あくまでその精神を汲みとってずっと晩年までついていたんですけれども、似ていないですよね。鬼頭先生らしい絵を描きたいとは思わない。反逆ではないんですが、鬼頭先生は後に繊細を尽くした舞妓図を描いて独壇場をうたわれたが、自分はそれとは正反対の画風に進みながらも、その師だけが持った「美の磨き」を修得しようとした。つまり自己発生的な自分の態度をそこに定着させることが師に対する報いであるというような考え方なんです。
—— 鬼頭先生のご指導というのはどうだったんですか。
小川 最初、先生に「これを日展に出していいですか」と聞きますと、今から考えると絶対落ちるに決まっているような作品なのに「出すな」とは言わないんです。そういう意味で今思うと非常に水くさい方だと思いました。その反面、親切というんですかね、何遍落ちてもいいから自分の描きたいもので何処までも挑戦しろ、というような芸術の道の厳しさの上にたった親切心だったとおもいますね。ああしろ、こうするな、というような細かなご指導はぜんぜんないですね。いろいろ、まだご指導いただきたいこともあったんですが、それも出来ないうちに亡くなられてしまって。
—— 特選をとられたのが一九四九年の《浜》。
小川 特選というのがあるなら、やはりそれをとりたいという気持に誰でもなるでしょう。私もその頃意欲を燃やしてがんばったんです。ですが、なかなか特選というものはとれないものです。ところが、予想もしない時に特選を戴いたんですよ。今度の文部大臣賞(第二一回日展)の受賞は予想外だったというのも私は永年ギリシャをテーマに制作を続けてきた。一昨年初めてモロッコを旅して、その感動を作品化したのだが、ギリシャ程思索を重ねたものではなかったからです。
—— 最初のころの作品は船とか海女をモチーフにしていますね。
小川 その少し前から志摩半島に目をむけましてね。海女の原始的な作業やあの素朴な風景がたまらなく私に合うんです。私は泳ぐことが好きで、海女と一緒の舟に乗ってあわびやさざえを採ったりとか、そういう生活をしている時にできた絵なんです。
—— それから人物にモチーフが移りますね。
小川 浜の風景を描いていたときも、画面のどこかにちょっと人物が入っているんですよ。だから、興味があるものはやはり人間なんだと思うようになってきたのね。そしてヨーロッパに行ってまたひとつ開眼をしたんです。
ヨーロッパの光よりも影に惹かれた
—— それはなんでしょうか。作品を拝見しますと造形とか構成というところから、マチエールとか質感とかに狙いが移ってきているように感じますが。
小川 初めてヨーロッパに行ったのが一九五七年で、名古屋駅で万歳三唱されて出発したんですよ。その頃はまだ珍しかったですからね。世界一周の切符を買って一人で出掛けました。そして最初に着いたのがエジプトなんです。カイロに着いたのが真夜中で、朝、窓を開けて憧れのエジプトを見たんです。遥か向こうに砂漠が見えて、手前には回教寺院のミナレットが林立し、貧しい民家が立ち並んでいる。風景が日本とは全然変わっており、大変な感激でした。
—— その経験が決定的だったんでしょうね。あの砂っぽいマチエールというか、石のように固くて渇いた質感は、そういう世界に通じるものがあるように思います。
小川 乾燥しているんですよ。旧市街にはごみが多かったり、決してきれいじゃないんですが、変に匂ったりしないからそんなに汚いという感じはないですね。ギリシャもそうなんです。しばらくギリシャを見て、それから友達のいるパリに行きました。パリにはけっこう日本人がいて、藤田嗣治氏の家におじゃましたり、光風会の先輩土橋淳夫婦と車で二ケ月ぐらいイベリア半島を回ったりしました。
昔の巡礼の道を通ってピレネーを越え、ヨーロッパ最西端のロカ岬や、ジブラルタル海峡までいきました。ああ、この先はアフリカなんだ、とそのとき強く憧れましたね。人の車で旅行しているから勝手を言うわけにもいかず、スペインを見て回って戻ったんですが、この時の旅ではロマネスクにとても感銘しました。
—— そこが先生らしいと思うんです。ヨーロッパに行かれて、パリにも長くいられたのに、きらびやかな文化とか都市ではなく、地中海沿岸地方の、どちらかというと素朴な、プリミティブなものに惹かれる。
小川 今はもう絶対にみられないそうですが、ラスコーやアルタミラの洞窟画は本当に素晴らしかった。結局、シャンゼリゼも東京も都会はみんな同じなんですよ。人間は虚飾を全部剥いだところで、風土性とか民族性とかの独特な魅力が出るんですね。ヨーロッパは過去の遺産が素晴らしい。その過去にそのままつながっているようなものや人間は田舎の方にあるんですね。そのあとも何度も行っていて、ギリシャがいちばん多いんですが、例えば、サントリーニ島へいくと、地下には紀元前一六〇〇年ごろの遺跡が眠っていて、その上に現代の街がある。ところがそこでの人々の生活は昔とそれほど変わっていない。当時のままの衣裳をつけたような女性が穴居生活していて家からひょっこりあらわれるんです。つまり今のギリシャが良いわけではなくて、古代の余影が美しいからなんです。
想いを呼びさますもの
—— そういう女性を描いたのが今につながっている一連の作品になるんですね。向こうではずいぶんスケッチなさったり……。
小川 友人に言われたんですよ。おまえは何しに行くと言うんで、勿論勉強に行くと言うと、だめだ、遊んでこい、勉強なんかするな、と。本当なんですね。絵かきだから描くのはあたりまえですけれど、何枚描いたかよりも、感じることの方が大事なんです。昔海女と一緒に海に潜ったように、そこで遊んで、体で感じてくる事が大切なんですね。絵は眼に見えたものをそのまま描くわけじゃないんですから。
—— 先生の作品を見ていますと、本当にそうですね。例えば石壁を見るとすると見えるのは現在そこにある石壁なんですが、それは同時に何千年も前の石壁でもあるわけでしょう。先生の絵はそこに千年前の人たちが壁画のように浮び上がってくるというか、そういうものを呼び覚ますような、そんな絵なんですね。
小川 向こうではアンティークの断片をずいぶんあつめましたよ。アンフォーラ(ギリシャ古代の壺)はギリシャからは持ち出せないので、シリアの海からあがったものを求めたんですが、そういうのを画室に置いて、この壺の口に耳をあてると古代ギリシャの数々の歴史が聞こえてくる。私のモチーフはこんなところから生れるのです。表面じゃなくて、奥にあるもの、といいますか。
—— それが基本ですね。その意味では海女を描いていたころから、最近のアフリカのものまで一貫していますね。ところでアフリカはどこに行かれたんですか。
小川 モロッコです。一昨年ですが、ジブラルタルで憧れて以来、やっとはじめてアフリカに渡ったのはやっぱり凄い感激でした。女性はみんなリタム(ベール)で顔を隠して目だけ出しているんです。別世界ですね。マグレブ(太陽の沈む国)そのもの、本当に地の果てという感じ。サハラ砂漠までは行かなかったんですが、この砂漠がそのままサハラに続いているというところは歩きました。それよりも、マラケシュにジェマ・エル・フナと言う大きな広場があって、昔は罪人をさらし首にした所だったのですが、今は大道芸人が集まって火を吹く人、アクロバット、蛇使いなどがいます。そこにいるだけで、すぐそこにサハラが迫っているという感じがひしひし感じられるんです。空気とか、風とかそういうのが違うんですね。
—— アフリカでまた新しい世界を発見されたというよりは、いままでの仕事の延長としてアフリカがあった。むしろ必然だ、という感じがします。先生は時流に媚びないというか、そのぶん確かに地味に見えるところもあるんですが、着実に画境を深めていらっしゃる。昨年の《テトアンの女》でいよいよ佳境に入られたように思います。ますますのご活躍を期待しております。