小川博史 記事録

風土の中の人間像を 追求する  上

  • 『なごや文化情報』 この人と 1999年4月号
  • (財団法人名古屋市文化振興事業団発行)

 小川博史さんの画業は七〇年近い。「歴史や風土の中に生きる人間への思いが私の追求する永遠のテーマ」と語り、漁村の海女、ギリシャの女性像とモチーフは変わっても、画面の奥にある美の表現を模索し、色調とタッチの微妙な取り合わせによって心象風景を描き出している。

 光風会理事、日展参与として活躍、八六歳のいまなお制作発表を続けている、東海地方洋画界の重鎮である。
(聞き手・遠藤由里枝)

子供の時からの目標

 小川博史さんが公募展で初めて受賞したのは一九四〇年。東海美術展に出品した《父の像》が名古屋商工会議所会頭賞に選ばれた。その翌年には第一回壮潮会展に《母の像》を出品している。

 この両親の間の四人兄妹の長男として旧家に生まれた小川さんは、家に伝わる掛け軸や道具など古いものに興味を持つ子供だったという。

 「先生が応募してくださった小学生のコンクールで二等賞になったものですから、励みになったというか、調子づいてしまって、絵を描きだすと、いつまでも描いていました。油絵の絵の具の盛り上がりに興味を持って水彩絵の具と母親のびんつけ油を練って自家製の絵の具を作ったこともありました」

 父・千市さんは銀行員だったが、大正時代は名古屋市内の支店への転勤でもその都度、支店近くへ転居するのが慣例になっており、小川さんの記憶では、名古屋市内だけでも五、六回、岐阜県下への転勤も二回あったという。

 絵が好きということと、父君の勤務地だったこともあって、岐阜県立多治見工業学校へ入学した。美術の授業では絵画だけでなく、彫刻から始まって型を造ることまで学んだ。その一方、当時女学校の教師だった東京美校出身の平田善吉氏についてデッサンの勉強をした。

 一九三一年、名古屋製陶へ入社。製品の型や図柄などデザイン部門の仕事をするようになったが、その才能が評価されて、会社から京都の商工省陶磁器試験所へ派遣された。最初は半年の予定だったが、やがて試験所の顧問、沼田一雅先生から、会社へ要請があって延長され、一年間京都で学んだ。

鬼頭鍋三郎氏に師事

 戦前の名古屋で洋画を志す人の大半は、鶴舞公園の近くにあったアメリカから帰国した安藤邦衛氏が指導していた洋画研究所で学んだが、小川さんも、ここへしばらく通った。そのころ、たまたま横井礼市(以)氏が主宰する緑ケ丘研究所の冬季講習会に参加。横井礼市、鬼頭鍋三郎、遠山清、舟橋治彦氏らの指導を受けたが、やがて鬼頭鍋三郎氏に師事する事になった。

 「鬼頭先生の描方が私の心をゆさぶり、引き付けられました。それで先生の門を叩いたのですが、指導は厳しかったですよ。

画帳を持っていって先生にお手本をかいてもらったり、見よう見まねで油絵をかいて、それについて先生の批評を受けたりと、一通りの勉強をしました。そのうちに公募展に出品したらと勧められましたが、最初は落選ばかりでした」

 一九三六年、第一回文部省美術展(略称文展)に《閑庭》が初入選し、翌年の紀元二六〇〇年奉祝展にも《安乗の漁村》を出品し、念願の画家としてスタートした。そのころ、勤務先の名古屋製陶でニューヨークに支店を出す計画があり、駐在員として小川さんが候補に上がっていたが、戦争のため沙汰やみになってしまった。

画家一筋の道へ

 一九四一年、光風会展に出品した《浜》がレートン賞を受賞、四三年には文展で岡田賞を受賞するなど、新進画家として順調に歩み始めた小川さんはこの年に画家一筋の道を選ぶ決心をして会社を退職した。

 「初期の私の作品はほとんど、三重県の波切を中心にした風景と海女さんで、私の画家としての開眼は波切だったと思っています。海女の白衣は素朴ですが、昔から変わらずに受け継がれているもので、歴史や風土の中に生きる人間への思いをそこに発見したのです。その気持ちは今も私の作品の中で、ますます強まりながら生きつづけています」

全日本スキー選手権大会

 小川さんは若いときから背筋がピンと伸びている。これはスポーツで鍛え上げたものだ。

 青年時代はスポーツ万能といわれるくらい、水泳、テニス、スケート、柔道となんでもこなしたが、ことにスキーは得意で、一九三四年に長野県藪原で開かれた第一二回全日本選手権大会に出場したというから、本格的である。

「自分の好きなことはとことんやらないと気がすまない性質なので、たとえ、スポーツでも、やるときは徹底的にやりましたね。それを楽しんでいたところもありましたが……」というが、小川さんの制作姿勢に通じるものがある。

南風会の結成

 戦争で展覧会は休催していたときも小川さんは配給の絵の具で絵をかき続けていた。現在も住んでおられる名古屋市南区桜台のあたりは、市南部の軍需工場に近く、たびたび空襲を受けたが、奇跡的に戦禍をまぬがれた。焼け残ったアトリエは一時画家仲間の溜まり場のようになった。そしてこの仲間たちで、グループ展を開こうという機運が芽生えて来て、一九五二年に「南風会」を結成した。小川さんが所属している光風会から「風」を南区だから「南」をと提案したのは、後に新制作協会で抽象作品を発表するようになる故久野真さんだったという。

 南風会は毎年、展覧会を開き名古屋の作家の発表の場となったが、九回目からは彫刻の創彫会、書の生々会、生け花の池坊と、ジャンルの違う会と合同した四彩会として展覧会を開いた。当時としては画期的な試みで、お互いに刺激を受けたが、主張が折り合わなくなって数回で中止した。現在は洋画だけのグループ展を開いている。

 この南風会結成の前後から小川さんの飛躍的な活動が始まるがそれは次号で紹介する。
(以下五月号)


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