小川博史 記事録

現代と歴史との交錯  高山 淳

  • 『美術の窓』 1997年1・2月合併号  展覧会PREVIEW
  • (生活の友社発行)
アクロチリの辺り 20F 1996年

アクロチリの辺り 20F 1996年


 この度、初めて小川さんのご自宅を訪問した。一階のアトリエに入った瞬間にピーンと張りつめた空気を感じた。それはアトリエの中にエジプトの頭像やキプロスの美しい壺が置いてあったことによる影響が強い。

 素焼きの壺の肩から胴にかけて幾何学的な同心円の文様の描かれているキプロスの壺はいかにも清らかで力強い。その傍らにエジプトの婦人の顔が黒い御影石に彫り込まれている。背後に燦々とした太陽の光線と青い空が浮かんでくるようだ。純朴にしてしかも品格の高い女性の、ある普遍的な美が彫られ磨かれている。

 そう思って視線を右にずらすと、アフリカのお面がかけられている。

 著名な画家のお宅を訪問すると、玄関口に李朝の壺などがよく置かれている。しかしそれはしばしばほとんど偽物といっていいような粗悪なものが多い。これだけ素晴らしい作品を描く人がどうしてこのような物を置かれているのか理解できなくて、絶句する場合もある。

 小川さんの作品をかねてから敬愛していたので、今回の十年ぶりの個展の取材のためにそのご自宅を訪問したのだが、アトリエの中にあるそのコレクションの素晴らしさにまず驚いたのである。

 「眼高手低」という言葉がある。これは「志の高さに対して、自分の作品の到らないところを嘆いている」という意味になるだろうか。現代の作家たちを評して、「眼低手高」、つまり志は低いけれど、マニュアル的なテクニックは優れているという意味のことを述べる人がいても、筆者は驚かない。勿論小川さんは前者のタイプである。

 小川さんはここのところ、ギリシアとかエーゲ海の島々の神像と現実の人間をダブらせたユニークな作品を描いてきた。

 エーゲ海や地中海の周辺の人々を描いているうちに、対岸のアフリカの人々も描くようになって、モロッコに住まう人々をモチーフにして、「テトアンの女」で一九八九年、日展で文部大臣賞を受賞した。この作品は、目だけを覗かせて、顔から頭、鼻から下を布で覆われた人物と少女を描いたものである。独特のマチエールと、まるでノミで彫り進んでいくようなフォルムとが一緒になって、あるイメージに結晶しているところが、興味深い。

 つまり現実の眼前にある人物を見ながら、それに二千年も三千年も前の、いわば神話の時代に生きる人々を重ね合わせて、あるヴィジョンを抽出しようとする姿勢が興味深い。

 ヨーロッパに行ったときのことについて、画家は次のように語っている。

 「アンフォーラ(ギリシャ古代の壺)はギリシャからは持ち出せないので、シリアの海からあがったものを求めたんですが、そういうのを画室に置いて、この壺の口に耳をあてると古代ギリシャの数々の歴史が聞こえてくる。私のモチーフはこんなところから生れるのです。表面じゃなくて、奥にあるもの、といいますか」(傍点筆者)

 「この壺の口に耳をあてると古代ギリシャの数々の歴史が聞こえてくる」という言葉はいかにも面白い。

 それはコクトーの次のような短詩を思い起こさせる。

  私の耳は貝のから
  海の響きをなつかしむ
              堀口大學訳「耳」より

 つまり画家の現実に経験してきた世界と、これまでの人類の記憶とが重なるのである。

 そこからオリジナルな造形を作り出そうとする苦しい闘いが小川さんの仕事といえるのである。

 小川さんは今回の個展にキクラデス諸島の一つサントリーニに取材した新作を相当描いているが、周知のようにサントリーニ島は、島の上部が現代であるが、段々と地底に向かうに従って、年代が遡っていく。街が幾層にもなっているのだ。

 「サントリーニは紀元前一六〇〇年頃までは、丸い島だったそうです。その頃大爆発があって、現在の三日月型に島の形が変わった。ですから、地下には、紀元前一六〇〇年頃までの、当時のミノア文化の遺跡が眠っていて、その上に現代の街がある。ところがそこでの一部の人々の生活は昔とそれほど変わっていない。当時のままの衣裳をつけたような女性が穴居生活していて家からひょっこりあらわれるんです」

 画家はアトリエの中で、現実と歴史との交錯について夢想している。その夢想の対象としてサントリーニ島は、格好のテーマなのだろう。

 今から約五〇年前、一九四八年に、日展に《浜》という作品を出品した。翌年の日展で絵柄は少し異なるが同じ題名の《浜》で特選を受賞した。

 一九四八年の《浜》は砂浜に横たわる海女と、それを見つめる黒い帽子をかぶった貴婦人とを対照させたものである。現実に労働する海女と、働かず鑑賞的立場にいる貴婦人を同一画面に描いて、それが、その頃の代表作となっていることを今振り返って考えてみると、きわめて興味深い問題を内包している。

 やがて、この二つの視点を哲学用語で言えば、止揚すべく、地中海にかつて存在した神々の姿を借りて表現する方向に向かったように思われる。つまり、海女と貴婦人から、現世の人間と神像に、移行したように思われる。

 大規模な個展は約一〇年ぶりである。絵画とは何であるか、象徴とは何であるか、現実とは何であるか、ヴィジョンとは何であるか、そういった問題について、この度の一〇年の成果の発表は、きわめて興味深い内容になるだろう。


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