小川博史 記事録

小川博史 洋画家94歳 名古屋市総合体育館、 大陶壁画

  • 『新美術新聞』 青春プレイバック 2007年8月1・11日合併号
  • (美術年鑑社発行)

 築七〇年のアトリエ(名古屋市南区)の壁に、茶色に変色した週刊誌の切抜きが、ビニール袋に丸めて詰め込まれ、吊り下げられていた。

 「爛柯と言う言葉。とても難しい言葉ですが、娘(武部志摩子さん)として父の姿そのものじゃないかなと思います。『好きな道で懸命に絵を描いて生活していたら、あっという間に歳を取って、九四歳になってしまった』と父は言います。自分と同世代の知人は、床に臥せったり、他界してしまっている。こんな父の心境は、なにか日本の昔話にある浦島太郎伝説に似ているし、それは『爛柯』という言葉とぴったり重なると思うんです」。そう説明を加えた上で、取材の資料にとコピーを手渡してくれた。浅学の身には、「爛柯」という耳慣れない言葉の出典など、知る由もない。要するに浦島太郎のような意味あいの故事である。そう納得した上で取材を始めた。いただいたコピーは帰京する新幹線の車内で初めて目を通し、思わず赤面した。独りの画家として、小川博史の語る言葉のすべては「爛柯」の二字に帰結する、実に重い意味を持つ言葉だったからである。

 雑誌は、一九七八年五月一九日刊行の「朝日ジャーナル」のエッセーの頁「極点」。執筆者は中国文学の中野美代子で、「爛柯」とのタイトルで一文を寄せていた。この故事の出典は、六世紀・任昉の著書『述異記』による。その大意は、晋の時代、王質という木こりが石室山に入ると、数人の童子が碁を打っていて、それを見ている間に斧の柯は爛れてしまったというもの。以下本文の一節を引用する。

 「だが、何といっても私が戦慄を禁じえないのは最後のくだりである。仙界の象徴である石室で童子が碁を打っているたまゆらの時間に、俗人の王質その人は変貌しないのに、彼が携えてきた斧の柯は俗界の時間の原理を蒙って爛れてしまうとは!」

 「たまゆらの時間」は、画家にとっては無心に絵筆を取る時間にあたるだろう。しかしそれは俗界の時間の流れでは数十年、あるいは百年にも相当する。小川自身、この言葉に出会ってから既に三〇年近い歳月が過ぎていた。「丸めた紙を広げようとすると、バリバリと紙は砕け、文字も壊れて読めなくなりそうで、急いでコピーしました」とのお嬢さんの言葉が、改めて思い出される。腐食した斧の柯と、紙の縁が砕け剥落した三〇年前の「朝日ジャーナル」の切抜きがイメージとして重なりあい、奇しき暗合であると、車中で独り納得していた。

 年譜によれば、小川博史の出生は名古屋となっている。実際には母方の実家、岐阜県美濃加茂市(現)で生まれ、すぐに名古屋の家に帰ったという。愛知銀行に勤めていた厳父の仕事の関係による転勤も多かったが、画家としてのベースは一貫して名古屋にある。若き日より文展を始め、多くの美術展に入選・入賞を重ね、順調な歩みを続けてきた。しかし将来本当に画家として大成できるのか、才能と言う容赦のない篩にかけられる道を歩むことを、家族はどのように受けとめていたのか、素朴な疑問も湧いてくる。「赤ん坊の時に発見されたのですが、生まれながら心臓に穴があいていたのです。心室中隔欠損症と言う病名で、こういう子供は長生きできないから、坊主か絵描きになるしかないと、医者からも勧められたそうです」と屈託のない笑顔で小川は答える。乳幼児の段階での手術が最も理想的だが、当時の医療技術では不可能であった。九四歳の現在もそのハンディに変わりはないが、柔道は黒帯、スキーは全日本選手権出場の腕前を持つ。まさに己を律する精神力の賜物だ。

 しかし一方、人生何が幸いするか分からない。在郷軍人として召集を受けたが、心臓疾患(第二乙種)により、即日帰郷。召集を受けた近隣の同世代の仲間達は、サイパン島に向かう輸送船が敵の攻撃を受けて沈没。全員戦死したと伝えられている。

 師との出会い。それもまた運である。一六歳という多感な時代に、鬼頭鍋三郎(一八九九年名古屋市生まれ、一九八二年没、日本芸術院会員・日展顧問・光風会理事長)と出会ったことが、その後の画家としての歩みを決定づけた。「ずうっと、お亡くなりになるまで、師匠と仰いだのは鬼頭先生だけでした」との言葉は重いが、過ぎ去ってしまえばそれも「爛柯」の時である。

 五七年六月、世界一周の旅に出た。経済大国ともてはやされるはるか昔、外貨の持ち出しが厳しく規制されていた時代の話である。エジプト、ギリシャ、フランス、イギリス、スペイン、ポルトガル、スイス、イタリアを巡った。もともと一年間の予定だったが、諸般の事情により半年に繰り上げ、帰国せざるを得なかった。しかし、その収穫は大きい。乾いた土と瓦礫の風土に生きるエジプト、北アフリカの群像。ギリシャの遺跡と優雅な衣装をまとう女性像、画家のモチーフとなる景観が、絵巻物のように次々と眼前に繰り広げられていった。しかし、画家が画面に描く人物像は、俗界の時間ではなくたまゆらの時間(仙界の時間)を生きている。画家にとってほんの瞬きにも等しい仙界の青春時代も、俗界においては、やはり「爛柯」の二字に集約されていく。画家はつぶやく。「私の体がこの世から消えても、絵の中に私は生き続ける」と。 

(取材・文/本紙・宗像克元)



この他の記事