小川博史 記事録

わが師を語る 小川博史

  • 『VISION』 1975年9月号 特集:鬼頭鍋三郎
  • (ビジョン企画出版社発行)
1961年頃 蓼科高原にて(左より:桜田精一、鬼頭鍋三郎、小川博史)

1961年頃 蓼科高原にて(左より:桜田精一、鬼頭鍋三郎、小川博史)


「ビジョン」が鬼頭先生の特集を企画するに当って、私に一文を徴せられたのは、私が半世紀近くも先生の御世話になっている不逞の弟子であるからだろう。鬼頭先生は私の師であり、それも半世紀に近い間、御世話になっている私であり、先生からすれば、いちばん古い不逞の弟子の一人なのであるから、鬼頭先生を語るには、私が最適者と見られるのかも知れない。

 わが師というものは常に批判の外に存在する。まして鬼頭先生は既に確定した評価の上に微動もしない位置に立っていられる。弟子の私が事新しく讃美したら却って失笑を買うくらいのことだろう。そこで植村鷹千代氏の言葉を引用させて頂こう。

 「——鬼頭鍋三郎の舞妓を主題にする作品は、この画家のパテントのように世間に知れ渡っているといっていい。毎年の光風展や日展では、なかなかの大作、力作が発表されているし、小品はあちこちの画商展などに出品されていて、制作力は少しも衰えを見せないどころか、むしろ旺盛さが目立つ位である」(ビジョン七四年六月号)

 鬼頭先生は御自宅のアトリエとは別に、近くのマンションの一室をアトリエにして仕事をしていられる。別に秘密にしていられた訳でもないと思うが、この頃では殆んどの人がそれを知っている。マンションはお住いからほんの二分ほどの近さで、朝食をすまされるとそこへ出かけられて制作にかゝられ、お昼には帰られ、午後は再びマンションのアトリエで夕方まで制作をつづけられる。これが最近の日課のようである。もっともこの間、舞妓の制作に京都へお出かけになる。

 お住いに立派な画室があるのに、マンションにもう一つ別のアトリエを設けられたのは、突然の来客や電話などで制作を中断されるのを避けられるためであると思うが、私は白髪の先生がたゞ一人こゝで制作三昧に浸っていられる姿を想像すると、ある厳しさを感ずる。
 先生から受ける感じは端正とか折目正しいとか言う一語につきる。先生は常に自己を厳しく律していられるように見える。酒は量はきまってはいるがおすきで、酒の席では楽しくおあがりになる。

 しかしその量は必ず一合で、その一合はいくらおすすめしても崩れない量である。先生の御一家は茶の道に精通していられる茶人一家のように見受けられるが、先生御自身はそうした修養はしていないと言っていられる。しかしある茶道に精通した人が、鬼頭先生は茶の道にもくわしいと評したのを聞いたことがある。若しそうならそれは先生の自己を厳しく律すると言う性格から、自然に到達された境地ではなかろうか。

 先生は他人の意見やその場の都合で、自分の態度や方針を変えるなどと言うことは絶対にない。何処までも自分の信念を守り抜くという態度である。こう言うと何か頑固なところがあるようにも聞えるが、それは一般的にいう頑固さとちがう、先生自身の信念の強さで、どんな場合でも他人に対抗するものではない。むしろ人は先生の謹厳さとある温かさを感ずる。恐らくは日常生活の上でも、先生はこのよい意味での頑固さを徹底されているのではないだろうか。

 先生は人に対して決してわけへだてをなさることはない。絵の指導についても、親切ていねいで、若い人の初歩的な作品に対しても決しておろそかにされない。若し先生を自分だけの先生として、自分だけが何か特別なものを先生に期待する下心があったとしたら失望しなければならない。先生はいつも公平である。

 あれだけの大作を次々と発表される先生はご多忙なはずなのに何かの会合や行事には必ず出席される。中座されるような事もない。いつもゆったりとして別に忙しいような様子も見せられない。矍鑠と言うのは年とってなお肉体的に元気のよい人の形容だが、わが鬼頭先生には当てはまらない。

 先生はどちらかと言えば痩身でスマートである。ただ精神が弾力に富みお若いのである。

 その若さは作品の上に躍動する。私は先生の大作の前に立つと、先生のエネルギッシュな精力に先ず感嘆する。今日もあのマンションのアトリエで制作に没頭されているであろう先生を想像すると、私は自分の怠惰を叱責され、温い鼓舞の声を聞く思いがする。


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